FOCUS
特集
脳オルガノイドと生命倫理
iPS細胞で明らかになる、
脳発生のメカニズム
「臓器(organ)のようなもの」という意味の「オルガノイド」は、幹細胞を三次元で培養して得られる組織です。ヒト臓器の構造や生理機能を詳細に再現可能であることから、従来の「動物モデル」を相互に補完するモデルとして期待されています。そしてこの技術は脳へと応用の幅を広げています。今回は将来的な医療応用を目指して研究するCiRAの髙橋淳教授と理化学研究所の坂口秀哉研究リーダー、そしてこの新たな技術の生命倫理を模索する京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点 (ASHBi)の澤井努特定助教に、脳オルガノイドのこれまでと未来について聞きました。
脳オルガノイドとは
坂口 脳オルガノイドという言葉が使われ始めたのは2013年ですが、それまでは脳の発生の三次元での再現という表現を使っていました。ES細胞やiPS細胞を単一の神経細胞に分化させるだけでなく、複数の細胞からなる三次元組織として分化誘導し、脳組織の一部を再現したのが脳オルガノイドです。ヒトの脳がつくられる過程を実験用の培養皿の上で観察できるようになったことで、ヒトの生物学や病気の研究が進めやすくなりましたよね。
髙橋 幹細胞の登場で、発生学の在り方が大きく変わりました。これまでは発生期の個体の組織を細かく観察していく「分ける発生学」でしたが、ES/iPS細胞から三次元の組織をつくれば、発生過程を再現しながらそこで働く因子を直接解析することができます。つまり、「つくる発生学」に変わったのです。
坂口 脳オルガノイドで疾患モデルをつくることができたら、より胎児に近いレベルで起きている変化も見ることができます。ヒトの脳がどのようにできてくるのかは、これまで調べることができませんでしたし、手を加えることも不可能でした。ヒトの脳の発生過程を培養皿の上で扱うことができるようになれば、これまでわかっていなかったヒトと動物の脳の違いもより詳細に明らかになっていくと思います。
髙橋 遺伝子を改変して疾患モデルを作製すれば病態の解明につながりますし、薬の開発も行えます。また、私たちは神経難病に対する細胞移植で脳機能を回復させる治療研究を行っていますが、大脳の神経細胞を誘導する方法のひとつとして脳オルガノイドを使っています。私たちの作製している大脳オルガノイドは約2-3mmのサイズですが、本物の大脳と同様に層構造をつくり、神経細胞同士の複雑なネットワークも形成されています。細胞を単独で培養するよりも大脳オルガノイドとして培養した方が、脳に移植した後に正しく機能すると考えられます。
オンラインで対談する、(左から)髙橋淳 教授、坂口秀哉 研究リーダー、澤井努 特定助教
オンラインで対談する、(上から)髙橋淳 教授、坂口秀哉 研究リーダー、澤井努 特定助教
人間らしさの源である脳を実験室で扱う倫理
澤井 脳は意識や心、認知や記憶などに関係する大事な臓器ですから、体外で脳オルガノイドをつくるとなれば、関心を示す人は少なくないと思います。だからこそ、将来的に問題が生じないように、今から議論を尽くしておきたいです。たとえば、研究がより発展したとき、脳オルガノイドが意識をもつのではないかと懸念されています。私は幹細胞研究の生命倫理を研究してきましたが、最近では科学者との融合研究を強化しています。2017年からは脳オルガノイドの生命倫理を研究するために、坂口さんや髙橋先生とも連携し、意識のような哲学的な問題を含む、多様な問題に取り組んでいます。
坂口 共同研究を始めた最初の頃は、専門分野が異なるため、私と澤井さんが共通言語にたどりつくまでが大変でした。自然科学も哲学も元々は1つの学問でしたが、専門が細分化された現在では会話が成り立ちにくい。自分の分野以外にも興味を持って、相手のロジックを理解することが大切ですね。脳オルガノイドの意識発生の問題についても、これまで哲学者や心理学者や科学者が意識をどのように捉えてきたかを把握しながら議論しています(※)。

MEMO
※ 澤井助教は2018年に坂口研究員らとともに、脳オルガノイドの作製および利用の在り方を論じるために科学者、哲学・倫理学者、法学者から構成される国際的な研究協力体制を構築した。
髙橋 そもそも意識とは何か、ヒトとは何かという話は私も大いに興味があります。ただ、脳オルガノイドを社会制度や科学技術政策の文脈の中でどう扱うかという現実的な問題と、人類が二千年以上考えてきて誰もが納得する答えが出ていない哲学的な問題とを混同すると、実のある議論ができなくなってしまうので、そこは切り分けて、気をつけながら進めたいという話はよくしていますね。
培養71日目の大脳オルガノイドの免疫染色画像 (坂口秀哉研究リーダー提供)
培養78日目の大脳オルガノイド明視野画像 (坂口秀哉研究リーダー提供)
脳オルガノイドは「ミニ脳」ではない
髙橋 脳オルガノイドは過大評価されているところがあります。小さな組織単位の集合体である肝臓や腎臓のオルガノイドは通称「ミニ臓器」と言えます。しかし現在、脳オルガノイドと呼ばれる技術で作製できるのは、脳の一部分だけで、しかもほとんどは神経細胞のみでつくられています。これでは「ミニブレイン(脳)」とは言えないのです。
私たちの脳は多様な細胞や組織で構成されています。それぞれの構成要素が、複雑な層構造や機能別に分かれた脳部位をつくり、それらが連携を取り合うことで、ようやく脳としての機能を発揮します。脳オルガノイドと血管をつないだり、目のような構造をもたせたり、筋肉組織とつないだりすることも試みられています。しかし意識を発生させたり、思考できる脳に至るにはまだまだ技術的に遠いのが実情です。
坂口 現時点では神経組織の三次元培養ですよね。でも、それを脳オルガノイドと呼ぶことで、人工的に脳をつくりだせるような印象を与えてしまいます。言葉の定義をあいまいにしたまま伝達されている現状があると思います。また、実験結果に対して過剰な解釈を行い、センセーショナルな形で発表する研究者もいます。現実と違う誤解が事実として広まることで、世論があらぬ方向にいくのは避けたいですね。
髙橋 人は、分からないものに対しては、憶測や妄想が膨らんでいきますからね。それを防ぐためにも、関わる側は情報をどんどん出していかなくてはいけません。
澤井 髙橋先生や坂口さんも指摘したように、まだまだ心配するような段階ではないと考える科学者は多いのですが、哲学・倫理学の研究者としては最悪の事例も想定しながら議論するように心がけています。また市民の方々の懸念も無視できません。その意味で、科学研究の進捗だけでなく、生命倫理の議論の過程も見えるようにする必要があると思います。私自身、研究者や患者さんや細胞提供者のような利害関係者、また生命倫理学者や法学者などの専門家、さらにこの技術に関心を抱く市民の方々とも一緒にこの問題を考えていくことを目指しています。
髙橋 研究成果の実用化に関して、唯一の正解というものはないと私は考えています。科学者は成果を誠実に発表し、時代や社会の変化を捉えながら、コンセンサスを模索していくしかない。たとえ正解にたどりつけなくても、そこまでにどれだけ議論を尽くせるかが大切です。
澤井 その意味でも社会との対話が重要ですよね。科学者や生命倫理の研究者が一方的に答えを示すのではなく、議論を社会に開いていく。こうした取り組みをCiRAの国際広報室とも連携しながら進めていきたいと考えています。
さかぐち ひでや
坂口 秀哉 研究リーダー
理化学研究所 理研BDR-大塚製薬連携センター
京都大学大学院医学研究科博士課程修了。博士(医学)。2016年4月より京都大学iPS細胞研究所(髙橋淳研究室)にて大脳オルガノイド研究の基盤構築や脊髄オルガノイドの分化誘導研究を行う。2019年米国ソーク研究所(Fred Gage研究室)日本学術振興会特別研究員PD/海外特別研究員を経て、2020年より現職。現在は海馬オルガノイドを基軸に組織構築の自己組織化の謎の解明を目指しつつ、オルガノイド技術を通した疾患研究も推進している。
さわい つとむ
澤井 努 特定助教
京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(ASHBi)
京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定研究員、特定助教を経て、2019年7月より現職。哲学・倫理学と科学の接点で国際的かつ学際的な生命倫理学研究を進めている。近著に脳オルガノイド研究の生命倫理も盛り込んだ、『命をどこまで操作してよいか――応用倫理学講義』(慶應義塾大学出版会、2021年)がある。
たかはし じゅん
髙橋 淳 教授
京都大学iPS細胞研究所 臨床応用研究部門
京都大学大学院医学研究科博士課程修了。博士(医学)。米国ソーク生物研究所博士研究員、京都大学医学研究科脳神経外科助教、同科講師を経て、2007年に京都大学再生医科学研究所生体修復応用分野准教授に着任。2012年から現職。脳神経外科医の経験を活かし、iPS細胞を使った脳疾患の治療法の開発を行っている。